ホームレス考 どんな人でも背負っている人生がある このブログ記事は、2015年1月3日に掲載したものを加筆修正して再掲しています。 川越市のおかやす学(岡安学)です。 川越市内のある小学校の体育館での出来事です。 学校行事のため、全児童が、朝、体育館に集まっていたのですが、行事の最中に、児童がバタバタと倒れたそうです。 それを見ていた学校関係者の方は、こどもたちが朝食を抜いていると、感じたようです。 食欲がなくて、朝、食べてこないのか、朝食の用意がなくて、食べられないのか、どちらかはわかりません。 こどもの貧困率ついて、2009年の厚生労働省の調査で、約6人に1人が貧困家庭と言われています。 30人学級であれば、5人いると考えると、非常に多いと思います。 その貧困家庭の約65%が母子家庭です。 親の、さらにその親からの貧困の連鎖も指摘されています。 わたしには、どうしても、こころに引っかかる言葉があります。 「努力した人が、報われるべき」という言葉。 これは、セーフティネットの視点から言えば、非常に危うい言葉です。 というのも、人間が努力できるかどうかは、その人が「努力できる環境」に置かれていたかどうかで、決定づけられてしまうことがあるからです。 ある文科大臣の家庭は、母子家庭で、その大臣は新聞配達少年だった、という本があるそうですが、そうした人でも、まわりの大人たちが温かく支えてくれた環境があったからこそ、今があるわけで、本人の努力のみの結晶ではないと思います。 本人の努力の問題にすると、同じ境遇で、まわりの大人の理解に恵まれていない環境に置かれているこどもは、比較されて、大変苦しい思いをするはずです。 努力というのは、本人次第という考え方はやはり危険を伴います。 本人の生まれ育った環境が「努力しようとする意欲」に大きく関わっているからです。 貧困な中で、親から虐待を受け、学校でもいじめを受け、社会に出て、人間不信になっている若者がいるとします。 その若者に、言葉で、「努力して自立しろ」と言うのは簡単です。 でも、その若者の人生をほんとうに確かなものにしてあげたいと思うのであれば、その若者に「努力しようとする意欲が芽生える環境」を作ってあげることが、まず必要だと思うのです。 「オール1の落ちこぼれ、教師になる」の著者、宮本延春(みやもとまさはる)さんも、中卒で、両親と死別し、学校でのいじめで、人間不信になっている中で、職を転々とし、ようやくバンド仲間の親戚が経営している会社に、アルバイトで就職し、そこの社長から、自分の息子のように、かわいがってもらい、正社員にしてもらった体験が、「努力しようとする意欲」を芽生えさせてくれたのでした。 ある政策の研修会に行ったときのことです。 その研修会の講師の女性は、ある政治家とお付き合いがあり、その政治家の話をされていました。 その政治家は、駅頭活動のとき、駅で寝泊まりしているホームレスの人に対しても、道行くと同じように、票につながるかどうか利害抜きで、真剣に自分の政策についての熱い思いを語りかけていたそうです。 「ホームレスのような人たちに対しても、熱く語りかけているのです」 とその女性講師は言いました。 わたしは、その女性講師の「ホームレスのような人たち」という見下した言葉がどうにも気に入りません。 なぜなら、人がホームレスになるとき、その人の生きてきた過去に思いを巡らせたならば、誤っても、「ホームレスのような人たち」という、自分とは関係のない境遇の人として、突き放すような表現はできないはずだからです。 家族との生別や死別体験、事業の失敗、病気による失業等、人生に絶望したとき、だれにでもホームレスという状況に置かれることがあり得るからです。 そういう思いを巡らすことができない人は、残念ながら、人間として、未熟な人なのだ、と思います。 わたしが、公民館職員だった頃、朝日新聞社の記者の山本晃一さんを講師としてお招きし、昭和58年2月に起こった、少年たちによる「横浜市山下公園ホームレス襲撃事件」について、お話していただいたことがあります。 以下は、犯行に加わった当時14歳の少年の、事件後の「それから」を追った、山本さんの 連載の記事の一部です。 冷え込んだ夜だった。気象台の記録からは、5度前後だったとみられる。 1983年2月5日、須藤泰造(当時60)は横浜・山下公園の売店の軒下に、風よけの段ボールを並べて城をつくった。その中の、拾った毛布やセーター、ジャケットなど、すべての衣類を着込んで横たわる。間もなく寝入った。 ・・・午後10時。10人の黒い影が近づいた。14歳から16歳までの若者だ。「ここにいるぞ」中の一人が声をあげる。 別の一人が須藤をいきなりけりあげる。 「いてぇ」と立ち上がったところを、今度は飛びげりにする。それからは総がかりだった。少林寺拳法の技を試す者、腹の上に飛び乗る者・・・。須藤に声はなかった。「このままだとみつかるぞ」だれかの声で、彼らは近くのごみ箱を倒して、須藤を引きずり入れた。それを起こし、30メートルほど離れた植え込みまで引きずる。そこで引っ張り出し、また胸に乗り、殴った。 ・・・「死んだんじゃないか」。その少年は思いながら、そこで初めて加わった。胸の上に乗ってみる。グニャリとしていた。足が沈むように感じた。その感触はいまもまとわりついている。気持ち悪いと思ったが、不思議と冷静だった。仲間は落ちていたスコップで、さらに頭を殴る。その音が響く。 「だれかに聞かれるとヤバイ」。忠告する者がいた。 再びごみ箱に須藤を入れ、一方的な襲撃は終わった。10分足らずのことだった。パトカーのサイレンが聞こえた。みな散り散りに逃げた。その少年も走った。現場から遠ざかってひと息つくと、ズボンのすそに血がついていた。それを隠して家に戻った。 以上引用 この少年たちは、その後の供述で、公園にいたホームレス100人ぐらいを襲撃し、そのうちの2、3人は死なせてしまったそうです。 須藤泰造さんも死なせてしまった一人でした。 山本記者は、この事件で、途中で暴行に加わった14歳の少年のその後を取材していました。 その少年は、頭から血を流した須藤さんの写真を見せられ、初めて後悔し、その夜から、悪夢にうなされたそうです。 そして、当時の教護院で、少年は、被害者の須藤泰造さんのことを初めて知らされました。 須藤さんが兵役に行ったこと、青森で妻と二人で菓子店を営んでいたこと、冬の朝、妻が土間で倒れて亡くなっていたこと、生きることに疲れて、横浜に来て日雇いになったことなどを知らされ、ホームレスの須藤さんに、人としてのぬくもりを感じたそうです。 この少年も家庭環境に恵まれていませんでした。 4歳のとき、両親が離婚し、母親は生活のため、水商売を始めます。 少年が15歳になるまでに、4人の父親がいました。 2番目、3番目の父親は、おもしろくないことがあると、事あるごとに少年を殴り、酒に酔っては暴れて、母親にも暴力を振う毎日だったそうです。 まさに、努力のしようもない、少年期だったわけです。 こうした環境の中で、少年は14歳で、この事件に加わってしまったのです。 わたしは、正直、その人の社会的地位や肩書、名声など、どうでもいいと思っています。 それよりも大事なことは、どのような境遇の人であろうとも、その人が、どんな思いで、かけがえのない人生を背負って生きてきたのか、その背負ってきたものに思いを巡らせたい。 少年は、罪を犯して、初めて、人が背負って生きている人生の重さを学んだのでした。 最後に、その少年について言及します。 教護院を出て、職を転々とし、社会でうまくいかないことがあると、母親に「おれの人生を返してくれ」と電話をかけずにはいられなくなるそうです。 数年間、暴力団にも入っていました。 このままでは、ダメになると思い、かつての教護院の寮長の金銭的援助で、暴力団から足抜けすることができました。 山本さんの記事の末尾は、こう締められています。 年明けに組を抜けた。寝る場所がなくなり、冬の公園で野宿を続けた。「ホームレスをいじめたから、同じことが自分に降りかかっている」と思えた。 野宿をすると、ホームレスの笑顔が浮かんだ。 11年前、自分たちが乱暴して死なせた須藤泰造(当時60)の顔だった。 関連