徳を積むこと

背負っている宿業はわからない

川越市のおかやす学(岡安学)です。

株式会社ダスキン会長の山村輝治さんがこのようなことを書いています。

山村さんとその友人がある話題になったときの会話です。

その話題とは、「同じ場面や環境にいるときに、柔軟に対応できる人と、感情的になってイライラする人との違いは何か」というものです。

山村さんは、こう答えました。

生まれてから今日までの、育った環境や受けてきた教育だと思う、と。

しかし、その友人の答えは意外なものでした。

「それも、一理あるけれど」と前置きして、

それよりも徳を積んできたかどうかだと思う、と。

友人は続けます。

多くの人は生まれ変わりを繰り返していて、その時々に徳を積んできた人の思考は柔軟で穏やか。初めてこの世に生を受けた人は徳を積んだ経験がないのでイライラするらしい、と。

山村さんには、腑に落ちた答えだったそうです。

同じ環境で育ち、同じ教育を受けてきたとしても、価値観や感受性がまったく違う人たちも多くいます。

だから、宿業(しゅくごう)を持ち出すことは、ある意味で、説得力があります。

宿業とは、過去世において、自分が行った行為です。

今、わたしたちは、人間として、生まれてきた、ということは、仏さまに成れなかった、ということです。

成仏できなかった。

この世に迷いや執着があって、お悟りを開けなかった。

だから、人間界へ生まれてきた。

でも、人間界に生まれ変われるのも、ほんとうは難しいことなのです。

「人身(にんじん)受け難し」というお言葉があります。

過去世での善行の結果、「人身受け難し」という人間界に生まれることができた。

にもかかわらず、せっかく生まれてきた人間界で、重い罪を犯してしまう人もいます。

人を殺そうと思っても一人も殺せない人もいれば、殺すまいと思っていても何人も殺してしまう人がいます。

宿業がそうさせているのです。

自分の心が善だから人を殺せないのではないのです。

自分の心が悪だから人を殺してしまうのではないのです。

そういう宿業があるから、そうさせているのです。

そう考えるのが仏教なのです。

どのような宿業を背負っているのかわからないのがわたしたちの姿です。

そう考えると、自分に対しても、他人に対しても、生きることに対しても、謙虚にならざるを得ないのだ、と思います。

そういう生き方が徳を積んでいくのです。

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