自分を大切にするとは 自分の本音と向き合う 川越市のおかやす学(岡安学)です。 先日、臨床宗教師会のオンライン研修のときのことです。 わたしが提出したケア対象者との会話記録を検討する研修会でした。 某大学教授のスーパーバイザー(以下SVという)の先生が指導者でした。 そのSVが、わたしの、ケア対象者に発した言葉を指摘して、こう言いました。 岡安さんは、この言葉で、ケア対象者を怒らせていることに気づきませんか、と。 そうして、SVは、たたみかけるように、こう言い放ちました。 このケア対象者に真摯に向き合うのであれば、岡安さんは、このあと、謝罪の言葉を言うべきではないですか、と。 わたしは、指摘を受けた会話の流れを自分なりに見直したのですが、ケア対象者のわたしに対する怒りというものは、どうしても感じることができませんでした。 通常であれば、指導者であるSVに、そうですよね、と受け流せば良かったのですが、わたしには、それができませんでした。 そして、しばらく、無言を貫いたあとに、こう言いました。 申し訳ないのですが、わたしには、SVのおっしゃることをそのまま受け取ることはできません、と。 すると、SVは険しい顔つきになって、こう言いました。 それならば、もうわたしは、なにも申し上げません、と。 要は、へそを曲げてしまったのです。 その後、他の参加者のいる中で、しばらく、沈黙のオンライン研修が続きました。 参加者の一人が、気まずい場を取り繕おうと、わたしにSVの指摘を受け入れるよう、促してきました。 岡安さん、みんな、いま、困っていると思いますよ、と。 でも、わたしは、言いました。 申し訳ありませんが、わたしは、自分が感じたり、思ったり、していないことを、受け入れることはできません。自分の気持ちにうそをつくことはできません、と。 わたしは、30代のときに得度して、僧侶となって、50歳で公務員を辞職して、市議会議員選挙に立候補しました。 公務員を辞職したときから、自分の気持ちに正直に生きたい、と思うようになりました。 自分のほんとうの気持ちに蓋をしないで、本音で生きていきたい、と思うようになりました。 そうして、このときから、社会的な地位や名誉、それに伴う権威や圧力などは、わたしにとっては、虚しい虚栄と化しました。 みなさんは、その場つくろいの言葉や行動をして、自分のほんとうの気持ちを置き去りにしていませんか。 自分にうそをついてまで我慢した思いや行いは、いつか自分に返ってきます。 自分の本音で生きてみて、離れていく人がいたとしたら、それまでのご縁なのです。 自分を大切にする、とは、本音で自分と向き合うことでもあります。 関連
岡安さんのお気持ち、よくわかります。私も、岡安さんの立場であれば、同じように断固たる態度を貫いたことでしょう。 そもそも、研修内容は 「岡安さんのケア対象者との会話記録の検討」ですよね。 ならば、臨床宗教師会の方々が研修の題材を決めた時点で、検討に値する内容、つまり、岡安さんの取り組みは素晴らしいという前提があったということですよね。 わざわざ、お偉い大学の先生を激怒させると思われる題材を、臨床宗教師会の主催者が研修内容にすることはあり得ない! わたしは資料を見ていませんから、完全な推測の域を出ませんが、岡安さんの取り組み内容は、斬新かつ素晴らしすぎたのですよ。 もっとストレートにいえば 「負けた、こんな発想、こんな思い切ったことができるなんて・・・」 お偉い大学教授は、心の底から、こう思われたのですよ。負けを認めたくないから、とことん否定した。岡安さんはじめ、皆さんを納得させることが言えないから、何も申し上げないといったと思います。 誰でも言える、誰でもできる常識なんて、もはや学ぶ価値はありません。何の解決にもつながりません。ケア対象者は、すでにありきたりの常識なんて百も承知ですからね。常識で解決できないから困っているわけです。 「もしかしたら、斬新な解決の糸口があるかも」 という一縷の望みを抱いて相談に来ると思うのです。 ですから、思い切った、その場では非常識と思えることでも言える覚悟をもってあたることが必要と思えます。 そして、その時は非常識と思えても、結果が出ることで、後に、普通に常識となることは多いのではないでしょうか。 私も、塾をやっている時代、思えば非常識な方法を実行しましたね。しかし、不思議と覚悟を決めて腹をくくって続けると、逆転また逆転まさに奇跡が起きるんですね。そして、そのうち奇跡が起きて当たり前になる。不可能が可能になってしまうのです。私の場合は生徒ですが、人を喜ばせ、人の人生を良くすることを続けていけば、必ず新たな発想が生まれ、新たな道である非常識が常識になっていくんです。 こころのままに、本音で生きること、大切なのですが意外とできない人が多いのが現状ですね。だからこそ、大切なことだと思います。 これからも、岡安さん、心のままに邁進していただきたいと思います。 岡安さんのご意見を拝読し、改めて、わたしも、心のままに邁進したいと思いました。 返信
岡安さんのお気持ち、よくわかります。私も、岡安さんの立場であれば、同じように断固たる態度を貫いたことでしょう。
そもそも、研修内容は
「岡安さんのケア対象者との会話記録の検討」ですよね。
ならば、臨床宗教師会の方々が研修の題材を決めた時点で、検討に値する内容、つまり、岡安さんの取り組みは素晴らしいという前提があったということですよね。
わざわざ、お偉い大学の先生を激怒させると思われる題材を、臨床宗教師会の主催者が研修内容にすることはあり得ない!
わたしは資料を見ていませんから、完全な推測の域を出ませんが、岡安さんの取り組み内容は、斬新かつ素晴らしすぎたのですよ。
もっとストレートにいえば
「負けた、こんな発想、こんな思い切ったことができるなんて・・・」
お偉い大学教授は、心の底から、こう思われたのですよ。負けを認めたくないから、とことん否定した。岡安さんはじめ、皆さんを納得させることが言えないから、何も申し上げないといったと思います。
誰でも言える、誰でもできる常識なんて、もはや学ぶ価値はありません。何の解決にもつながりません。ケア対象者は、すでにありきたりの常識なんて百も承知ですからね。常識で解決できないから困っているわけです。
「もしかしたら、斬新な解決の糸口があるかも」
という一縷の望みを抱いて相談に来ると思うのです。
ですから、思い切った、その場では非常識と思えることでも言える覚悟をもってあたることが必要と思えます。
そして、その時は非常識と思えても、結果が出ることで、後に、普通に常識となることは多いのではないでしょうか。
私も、塾をやっている時代、思えば非常識な方法を実行しましたね。しかし、不思議と覚悟を決めて腹をくくって続けると、逆転また逆転まさに奇跡が起きるんですね。そして、そのうち奇跡が起きて当たり前になる。不可能が可能になってしまうのです。私の場合は生徒ですが、人を喜ばせ、人の人生を良くすることを続けていけば、必ず新たな発想が生まれ、新たな道である非常識が常識になっていくんです。
こころのままに、本音で生きること、大切なのですが意外とできない人が多いのが現状ですね。だからこそ、大切なことだと思います。
これからも、岡安さん、心のままに邁進していただきたいと思います。
岡安さんのご意見を拝読し、改めて、わたしも、心のままに邁進したいと思いました。
ありがとうございます。
この励ましのお言葉を糧に、これからも精進してまいります。