自死でも救われる

成仏しているかどうかは裁くものではない

川越市のおかやす学(岡安学)です。

わたしは、自死による遺族の悲しみの深さや衝撃を見てきた者として、自死という行為を肯定できずにいました。

しかし、ある葬儀に導師として伺って、考え方が変わっていました。

お亡くなりになった方は、自死された方でした。

とても穏やかなお顔をされていました。

すべての苦しみや悩みから解放されたお顔でした。

見ていて、それがわかるのです。

スピリチュアルの能力を売りにして、出版されている本を読むと、必ずと言っていいくらいにこう書いてあります。

自死された方は、生前の苦しみを、死んでなお解消できずに、幽界をさまよい、自死してしまったことに後悔している、と。

でも、わたしは、数多くのご遺体を見てきて、そうは言い切れない、と思っています。

自死に限らず、事故死や犯罪に巻き込まれてしまった方々もそうです。

実に、安らかなお顔をされているのです。

むしろ定命(じょうみょう)という定められた寿命を全うされた方のほうが、浮かばれないようなお顔をされていることもあるのです。

その違いは何なのだろうか。

わたしは、故人が生前、家族や知人の愛情で満たされた環境にいたかどうか、ということが大きいのではないかと感じています。

たとえ自死であっても、家族の愛情を受けていた中での死であれば、苦しみのない世界へ往生されていかれた、と思っています。

死んでもいないわたしたちが、体験もしていないのに、他人の死にざまを裁いて、成仏していない、などとまことしやかにいうことは、とてもおこがましいことだと思っています。

棺の中の、死に顔が物語っているのです。

この世の苦しみから逃れてもいいのだ。

何の未練も執着もない。

穏やかな死に顔がそう伝えてきていました。

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