花の命は短くて(再掲) イノセントに生きること 川越市のおかやす学(岡安学)です。 2017年9月7日に書いたブログ記事を再掲します。 葬儀後、火葬場へ出棺前に、必ず棺に「お花入れ」をご遺族でします。ご遺体のまわりをたくさんの花で、飾って差し上げるのです。葬儀屋さんが、荘厳壇に飾られたお花を摘み取り、たくさんのお花をお盆に乗せて、遺族に渡します。その中で、白い菊の花だけは、花の部分だけ、はさみで切り取られます。青々した茎や葉はそのまま残されています。わたしには、なぜか、白い菊の首だけ、切り落とされているように感じられて、植物とはいえ、かわいそうに思うことがあります。人の死を悼むために、その悲しみを癒すために、飾られた花たちは、枯れることも許されずに、生きたまま切り取られ、焼かれていきます。花の命は短くて苦しきことのみ多かりき。昭和の初期の時代をたくましく生きた女性作家、林芙美子の言葉です。『放浪記』という有名な作者でもあります。47歳という短い人生でもありました。私生児として生まれ、貧しさの中で育ち、職を転々として、苦労の多い人生を送った人でした。その苦労が『放浪記』という作品を生んだのだと思います。「花の命は短くて」という言葉も、おそらく自分の人生と重ね合わせていたのでしょう。その林芙美子の告別式の弔辞で、作家の川端康成がこのようなことを述べていたそうです。生前、故人は、文学活動のために、人にひどいことをしたかもしれないが、もう灰になってしまう身なので、どうか許してやってほしい、と。ある高齢男性の葬儀のことです。中高年になる子どもたちの様子から、その死に対する悼みが、あまり感じられませんでした。その亡くなった高齢男性には、妻とは別に、長く連れ添った女性がいたのです。妻と死別してから、付き合っていたようです。もちろん、子どもたちは、その女性を嫌い、葬儀には呼んでいませんでした。こういうときの法話ほど、難しいものはありません。そのとき、わたしは、川端康成と同じようなことを言っていました。もう仏さまと成られた身なので、どうぞこころ穏やかに見送ってあげましょう、と。世の中には、イノセント(無邪気、純潔なこと)に生きる人がいます。自分の「愛」や「欲」に素直に生きる人です。特に小説家という職業は、自分の中にあるイノセントな部分を大切にしないと、いい作品が書けないという宿命がある、と思います。花の命は短くて苦しきことのみ多かりき。首を切り取られた白い菊の花々を見て、ふと芙美子の言葉を思い出してしまいました。 関連