艱難辛苦を乗り越える

順風満帆な人生などない

川越市のおかやす学(岡安学)です。

浄土真宗本願寺派の僧侶として、得度してから、ちょうど22年が経ちました。

川越市役所には25年間勤務しました。

市議会議員選挙にも立候補しました。

いわゆるふつうのサラリーマン人生から外れた生き方をしてきたのだ、と思います。

というか、「ふつう」という当たり前のように思える日常を送ることも、実は大変なことなのです。

日々の隠れた努力の積み重ねがあってこそ、「ふつう」でいられるのだ、と思っています。

しかも、「ふつう」という物差しの尺度は、人によって違います。

メートルでしか測れない物差しの人もいれば、センチでしか測れない物差しの人もいます。

ミリまで測れる物差しの人もいれば、マイクロまで測れる物差しの人もいます。

わたしは、人生の晩年を迎えるようになって、一つの確信を得たように思います。

人によっては、それは偏見だ、と思う方もいらっしゃるとも思いますが・・・。

その確信とは、経験や体験の多い人ほど、様々な尺度で測れる物差しを持っている、ということです。

日本でしか生活をしていない人が、世界の国々の人たちの生活に思いをはせることは難しいと思います。

がんになった人でないとがんになった人の痛みはわからないと思います。

こどもを亡くした人でないとこどもを亡くした人の悲しみはわからないと思います。

離婚した人でないと離婚した人の思いはわからないと思います。

失業やリストラされた人でないと失業やリストラされた人の不安はわからないと思います。

こどもを授かることができなかった人でないと不妊治療を受けている人の悩みはわからないと思います。

親から精神的、肉体的な暴力を受けた人でないと親から精神的、肉体的な暴力を受けた人のトラウマはわからないと思います。

身内が犯罪の被害者に、あるいは加害者になった人でないと、身内が犯罪の被害者に、あるいは加害者になった人の苦しみはわからないと思います。

介護で苦労した人でないと介護で苦労している人のやるせなさはわからないと思います。

不登校やひきこもりの当事者やその親でないと不登校やひきこもりの当事者やその親の先の見えない不安や焦りを理解できないと思います。

ほかにも上げたらきりがないのですが、なぜ自分はこんなにも悲しい体験や苦しい思いをしなければならないのだろうか、と苦難を前にしてたたずんでしまう人もいらっしゃると思います。

それを自業自得だとか、前世の宿業だとか、済ました顔で無責任に言い放つ仏教者がいるのならば、そういう人とは距離を置いたほうが賢明だと思います。

諸行無常だと言葉を使って割り切ろうとする仏教者がいるのであれば、そういう人とも一線を画したほうが得策だと思います。

わたしたちが様々な艱難辛苦の体験を通して、その苦しみや悩みが深ければ深いほど、わたしの物差しは自分や他人(ひと)を裁くために使われるものではないということに気づくのではないでしょうか。

自分をいたわり、他人(ひと)の痛みに寄り添うための物差しとして自然と使われていくのではないでしょうか。

あなたの耐え難い苦しみは、あなたを傷つけるために与えられるものではありません。

心の糧(かて)となるものです。

ご自身をいたわってください。

他者への優しさとなって、還っていきます。

あなた自身が、報われるのではなく、必ず救われていきます。

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