水難(すいなん)

事釈(じしゃく)と理釈(りしゃく)

川越市のおかやす学(岡安学)です。

連日の知床観光船の報道を耳にするたびに心が痛みます。

出発前に海が荒れていなかった、という油断が事故につながっています。

同じような事故で、洞爺丸(とうやまる)という青函連絡船の沈没が引き合いに出されます。

昭和29年9月に、台風の影響で、函館湾内で、洞爺丸が沈没して、1155人がお亡くなりになっています。

このときも、目視で、晴れ間が出ていたので、台風が過ぎ去ったであろうという判断の誤りがありました。

この洞爺丸に乗るはずで指定券まで購入していたある僧侶がいました。

その方は、臨済宗の僧侶で、「南無の会(宗派を超えた宗教者の集まり)」の会長をなさっていた、松原泰道(まつばらたいどう)氏です。

事故当日、友人の忠告を受け、一便前の連絡船に乗って、助かったのです。

仏教書のベストセラー著者でもあった松原氏でしたので、マスコミの取材を受けることになります。

奇跡の生存者として。

ある新聞記者がこう言い放ちます。

やっぱり、宗教に携わっている人には、ご利益があるんですね、と。

しかし、松原氏は、その言葉をきっぱりと否定します。

それは、違います、と。

そして、怪訝そうな顔つきの記者を前に、こう続けたのです。

私が死ぬことなくして多数の人が亡くなったのは、ご利益ではありません。私が死んで他の人が救われるのがご利益というものです、と。

敬虔(けいけん)なキリスト教徒で、作家であった、三浦綾子さんも、洞爺丸沈没を取材して、『氷点』という小説を書いています。

米人宣教師ディーン・リーパさん(当時33歳)が洞爺丸沈没の際、船員から救命ブイを渡されます。

これで、なんとか助かるとホッとしたとき、そばで若い日本女性の泣きわめく声が聞こえます。

傾いた船内で、赤ちゃんを背にして、幼い女の子の手を引いていたその若い母親は必死に助けを求めていました。

宣教師は、無言で、自分のブイを、その女性に手渡します。

松原氏はこう言っています。

奇跡とは、人間の常識ではとても考えられないこと、人間に出来るはずもないと思われていたことが実現すること、であると言っています。

一方で、霊験(れいげん)とは、エゴの塊(かたまり)のような人間を超えた慈悲や愛、神仏の力が証明されること、であると言っています。

わたしたちは、宣教師のように、他人のいのちのために、自分の命綱を手渡すことはできるでしょうか。

松原氏は、この宣教師のような行為や思いに、奇跡やご利益を見ていたのだ、と思います。

わたしは、あの仏さまに手を合わせたから助かった、あの神さまにお願いしたから救われた、というのは、わたしがそう思っているだけのエゴです。

そういう類(たぐ)いは、奇跡でも、霊験でも、ありません。

松原氏は、このようなことも言っています。

津波や洪水、船が沈むという水難に、人はめったに出遭いません。

しかし、愛欲(あいよく)という名の水難には、今も襲われているのではないか、と。

愛欲は「わたし」を都合とした「エゴの愛」です。

愛欲は、何も異性愛だけを意味するものではありません。

夫婦愛も、こどもへの愛情も、父母への愛情も、愛欲なのです。

この愛欲が煩悩となってわたしたちを苦しませるのです。

この愛欲が波立つときは、いつ、その波に、のまれて溺れてしまうかわかりません。

仏教は、実際の災厄に遭わずに済んだとしても、それを「愛欲煩悩」のように、物事の道理をさとるように導く教えでもあります。

火事に遭わずに助かったとしても、憎しみや怒りという心の中の火事で、我が身が焼かれることもあります。(火難)

殺傷事件に遭遇することがなかったとしても、己の傲慢さが他人を傷つけ、他人を抹殺することすらあるのです。(剣難)

仏教では、実際に起こる現象に仏心を見ることを「事釈(じしゃく)」と言います。

その事釈に我がこころに照らし合わせて、物事の道理をさとることを「理釈(りしゃく)」と言います。

参考 『わたしの観音経 孤独を見つめ、真のよろこびへ』 松原泰道著 祥伝社出版

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