死にたいという呟き 仏さまの悲願 川越市のおかやす学(岡安学)です。 『歎異抄(たんにしょう)』という鎌倉時代後期に書かれた仏教書があります。 浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん)の弟子の唯円(ゆいえん)が、親鸞の言葉を書き留めた書物です。 文字どおり、「異なることを嘆く」書物です。 親鸞が亡くなった後に、親鸞が伝えていた教えと異なることを言い出す人たちが教団内に出てきたからです。 だから、正(ただ)す必要があったのです。 この『歎異抄』の中で、大変興味深い、親鸞と弟子の唯円との会話のやりとりがあります。 唯円がこう言います。 念仏を称えていますが、天に踊り、地に舞うほどの喜びが湧き出て来ません。それに急いで浄土へ往(い)きたいと思えないのですが、これはどう考えたらいいのでしょうか、と。 唯円は、実に、正直です。 それに弟子が師匠にこうした告白ができるでしょうか。 お前は、修行が足らんからだ、と一喝されてしまうのではないでしょうか。 浄土教というものは、どんなに修行しても自分の力で悟りを開くことは出来ない、仏になることは出来ない、という前提があります。 だから、高僧と弟子という関係であっても、お互いに悟りを得られないという点では平等であるわけです。 その唯円の疑問に対して、親鸞も、実に率直です。 わたしもそれは疑問であったが、唯円、あなたも同じ疑問を持っていたのですね、と。 偉ぶるところはありません。親鸞は続けます。 よくよく考えてみれば、天に踊り地に舞うほど喜びが得られないからこそ、往生が確定したと考えるべきではないだろうか、と。 念仏をして極楽浄土へ往きたいと思えないからこそ、往生して仏とならせていただくことが間違いない、と親鸞は言っているのです。 なぜ? わたしたちは、いつも煩(わずら)い悩み(煩悩)、真実の世界を知らない者(凡夫・ぼんぶ)だからだ、と親鸞は言っています。 ちょっとした病気にでもなれば、死にはせぬかと心細くなり、生まれ変わり死に変わる流転輪廻の、この迷いの世界は捨てにくく、まだ見たことがない極楽浄土など恋しくないということは煩悩がそれだけ強いからだ、と。 そんな煩悩の強い、わたしこそが、仏さまの救いの悲願であり、目当てであったから、煩悩を抱えていてもいいのだと安心できるのである、と。 親鸞という人は、独特なレトリック(言い回しを工夫することによって相手の感情に訴えかける方法)を駆使する人だ、という見方もできます。 が、わたしは、実は、やはり、自己を素直に見つめ、自己をありのまま認めていた人だからこそ、このような言葉が自然と出てきていたのだ、と思うのです。 そして、そういう人だからこそ、共感力も高かったのではないか、と思うのです。 相談というものは、問題の解決を求めるものや、意見として参考にするものなど、そのあり方は相談内容によってまちまちです。 しかし、答えが出ない相談もあります。 特に「いのち」の問題についてはそうです。 死にたい、という呟(つぶや)きが聞こえてきたとき。 その呟きのむこうになにが見えますか。 親鸞だったら、何と答えてくださるでしょうか。 日常を超えた非日常な気づきの扉が開かれています。 関連