なぜ本願寺は西と東に分かれているのか

後継者争いは権力者次第

川越市のおかやす学(岡安学)です。

京都へ行くと、西本願寺と東本願寺という大きなお寺がそれぞれ別々にあります。

「お西(にし)さん」、「お東(ひがし)さん」と呼んでいます。

浄土真宗本願寺派が西本願寺です。

真宗大谷派が東本願寺です。(浄土真宗大谷派とは言わないのです。)

戦国時代、本願寺は、蓮如(れんにょ)によって、巨大な教団として、戦国大名をしのぐほどの力を持ちました。

今から約450年前、織田信長は、石山本願寺(現在の大阪市)の明け渡しを迫りました。

当時の本願寺11代顕如(けんにょ)は、その要求を拒み、挙兵します。

それから10年に及ぶ長い戦いが続きます。

石山合戦です。

当初は、本願寺が有利に戦っていたのですが、信長が戦法を変えて、本願寺を包囲して兵糧攻めにしたことで、形勢が逆転しました。

顕如は朝廷の仲介を受け入れて、信長と和睦して、石山本願寺を退去しました。

しかし、このとき、本願寺内部で分裂がありました。

顕如の長男である教如(きょうにょ)が和睦に反対して、徹底抗戦を主張し、石山本願寺に籠城したのです。

結局は、教如も退却するのですが、教如は顕如から親子の縁を切られてしまいます。

その2年後、信長が本能寺で討たれてことで、顕如と教如の親子は和解しました。

顕如と教如の親子は、この戦国の乱世を生き抜くために、豊臣秀吉に近づいていきます。

顕如が亡くなり、長男である教如が12代を継ぐことになりました。

しかし、教如が宗主となることで、かつての教団内の分裂が表面化します。

いままで顕如に従ってきた側近は、かつて石山合戦で徹底抗戦を主張してきた教如の側近が重用されてきたことがおもしろくなかったのです。

反教如派となって、三男の准如(じゅんにょ)を本願寺の後継者にするべく、母親の如春尼(にょしゅんに)に訴え、画策します。

如春尼と准如は、秀吉に、顕如が生前、宗主を教如ではなく、准如に譲る旨を書いた譲り状を証拠として、訴え出たのでした。

それを信じた秀吉は、調停案として、教如に、10年後に宗主を准如に譲りなさいと命令したのですが、教如の側近が、その譲り状は捏造(ねつぞう)されたものだと騒いだため、激怒した秀吉は、直(ただ)ちに宗主を准如に譲れと言い渡したのです。

教如は1年足らずで、本願寺宗主の座を追われることになりました。

やがて、秀吉が亡くなり、関ヶ原の合戦の直前に、教如は徳川家康の陣中見舞いに駆け付けます。

このとき、准如側は、石田三成側についたという嫌疑がかけられていました。

家康が戦に勝ち、家康が教如に本願寺宗主の座を与えようとすると、教如はそれを辞退します。

教如派と准如派とで対立する本願寺に返り咲くよりは、教如派としての新しい本願寺をつくりたかったのです。

家康の重臣である本多正信は、本願寺をもう一つ建てることで、本願寺の勢力が二分化して、力が弱まるとの提案を家康にします。

家康は、教如に、本願寺の東に位置する京都六条烏丸の地を与えて、別寺(東本願寺)の創建を認めました。 現在、准如方は西本願寺(お西)、教如方は東本願寺(お東)と通称されています。

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