死にたくないいのち

捧げるいのちなどない

川越市のおかやす学(岡安学)です。

日本のメディアも、ロシアの国営放送と大して変わらないことがわかりました。

以下の記事は、2015年7月19日にわたしが書いたものをタイトルを変えて加筆修正しています。

ある中学校で、「特攻隊員の手記」を題材にした、道徳としての授業がありました。



自分の身を犠牲にしても、日本国を守りたいという思いがその手記に綴られています。



これは、当時、中将だった方の手記でした。



また、大尉だった方の手記を題材にした授業では、自分(大尉)の娘に宛てた遺書を生徒たちに見せていました。



大きくなって父に会いたくなったら、九段(靖国神社)へいらっしゃい、と書かれたものです。



どちらも、大尉、中将。



責任ある立場です。



ですから、覚悟ある立派な言葉が並んでいます。



この手記を読ませた先生は、授業の一環として、その後、生徒たちに特攻隊員に対してメッセージを書かせています。



返ってきた生徒のメッセージの一部は、以下のとおりです。



命を張ってまで日本を守ってくれて感謝します。



特攻隊の皆さんの強い決断を見習い、恥ずかしくない生き方をしたいです。



特攻隊員達の活躍がなければ、今の自分たちはなかったのかもしれません。



あなた方が命を賭けて守ったこの日の丸は自分たちがまた次の世代へと受け継いでいきます。



中学校の先生は、おそらく、こうしたメッセージが生徒たちから返ってくることを想定して、この手記を題材にしたのだと思います。



しかし、わたしが、以前、読んだことがある特攻隊員たちの手記は、こうしたものとは全く別物でした。



それは、海軍飛行予科練習生(予科練)の20歳未満の若者たちの手記でした。



「日本国を守りたい」とか、「九段にいらっしゃい」という覚悟の言葉はありませんでした。



ただ、ひたすら、親に逆縁を味合わさせてしまう(親より先に死んでゆく)申し訳なさ、そして、今まで育ててくれた親への感謝の言葉ばかりでした。



自分の死をもって、家族や日本国を守りたいという決意の言葉は、書かれていませんでした。



行間には、ほんとうは、まだ死にたくない、という予科練習生の強い思いが、わたしには読みとることができました。



死にたくないけれども、死んでいかなければならない「わがいのちの尊さ」が、いのちの源である親への恩に報いることすらできない懺悔へと変わっているのです。



死にたくない。



これが、いのちを奪われてゆく人間の本音なのです。



その死にたくない「いのち」を国家に「捧げた」のか、国家に「奪われた」のか。



扱う題材や授業の意図するところよっては、こどもたちに与える影響は雲泥の差があります。



また、この予科練では、戦局の悪化に伴い、朝鮮人日本兵や台湾人日本兵など、内地の人間でない若者たちまでも志願させ、特攻でいのちを失っているという事実をこどもたちは知らないと思います。



このメッセージを書かせた先生は、今の平和は戦没者の犠牲の上に成り立っていることを生徒たちに教えたかったのはわかりますが、それだけではほんとうの教育にはならないと思います。



わたしは、個人的には、政治的に作られた靖国神社に参拝はしませんし、(そこに御先祖がいるとも思っていませんし)、さらにはそこに祀られているA級戦犯(戦争責任者)だけは、決して許してはならないと思っています。



彼らの国策により、多くのいのちが失われました。



原爆も投下されました。



迅速かつ適正な判断によっては、あまたのいのちが救えたはずなのです。



巷で起こる殺人事件の犯人とは、罪の深さが違います。



戦争を遂行する者の責任、そしてその罪が、どれほど重いものなのかを知るべきなのです。



戦争というものは殺し合いなのだ。



本来ならば、暴力ではなく、話し合いで解決するべきだったのだ。



戦争を肯定する人たちの手段や道具として、人間の「いのち」が利用されているのだ。



ということを、生徒たちがメッセージとして返してきたとき、その「気づき」こそが、ほんとうの教育であり、未来の日本を救うような気がしてなりません。

憲法改正、あなたのいのちの覚悟はできていますか。

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