わたしと新興宗教

教えが組織につながるとき

川越市のおかやす学(岡安学)です。

わたしは、特定の政党を支持していません。

が、安倍さんを乗せた霊柩車が首相官邸に立ち寄ったときのことです。

出迎えていた岸田総理大臣の合掌の姿に、目を見張りました。

国のリーダーになるだけの人だなあと思いました。

どのような姿であったと思われますか。

実は、仏教徒にとっては、とても重要なことなのです。

ブログの最後にそのことについて触れたいと思います。

今でこそ、告白できますが、なにをどう書いたらいいのか、言葉の重みを感じます。

わたしは、10年以上も前に、政策を実現したいという強い思いよりも、ただ市議会議員になりたいと思う時期がありました。

ある大きな政党に属している人のところへ相談に行きました。

その人は、当時、現職の市議会議員で、トップ当選をしていた方です。

人との縁により、その人とつながっていました。

わたしは、その人にお願いしました。

わたしのような素人が市議会議員を目指したいのですが、ご指導いただけないでしょうか。

それは辞めておいたほうがいい。

開口一番にそう言われました。

言葉が不適切なのですが、商売敵に思われた、と未熟なわたしは思いました。

しばらく、あきらめきれないという思いを吐露して、ねばりました。

すると、その人は、わたしに、日時と住所を指定して、ここへ来なさい、と言われました。

そうして、こう付け加えました。

まず、議員になるには、顔と名前をたくさんの人に覚えてもらわなければいけないんだよ、と。

指定された場所へ行ってみましたら、そこは某宗教団体の道場でした。

新興宗教の団体でした。

その日は、定例行事があり、大勢の人が集まっていました。

その市議会議員は、大勢の人の前で、○○党市議会議員の○○先生です、と紹介されていました。

のちに、その市議会議員が、ほかにもいくつかの宗教団体に所属していることを知りました。

その姿勢に、ほんとうの信仰があったかどうかわかりません。

が、票を集めるためには、こういうことをしていかなければならないのだなあ、と思いました。

わたしも、その日、早速、入信を勧められました。

得度(とくど・僧侶になるための出家の儀式のこと)していることを正直に打ち明けました。

でも、その宗教団体は、なぜか他宗教に対して寛容でした。

うちには、僧侶や牧師の方もいらっしゃるのですよ、と支部長の方が言われました。

自分の夢のために、とにかく行動を起こさなければならない。

わたしは、こころを隠して、入信しました。

はじめのうちは、みんなが優しくしてくれました。

とても居心地が良かったのです。

でも、ある時期からお客さま扱いは終わりました。

そうして、具体的には書きませんが、少しずつわたしに物理的な負荷がかけられるような言動があらわれるようになりました。

その宗教の神さまを信じていないわたしにとって、その言動は重荷でしかありませんでした。

結局、わたしは、かなり強く引き止められましたが、その教団を退くことにしました。

でも、わたしは、その教団に身を投じて知ったことがありました。

その教団の神さまにすがっていかなければ生きていけない人もいる、ということでした。

妄信的にならなければ生きていけないほど不幸を経験している人、不安に苛まれている人がいる、という事実でした。

宗教は、現実生活との折り合い次第では、毒にもなり、薬にもなるものです。

新興宗教というとカルトというイメージがあります。

でも、カルトという言葉は、広い意味で、「極端な思想をもった団体」のことです。

だから、宗教だけがカルトではなく、政治カルト、環境カルト、自己啓発カルト、商業カルトと、実はカルトも様々あるのです。

死んだらそれで終わりだ、という人も、ある意味では、カルトです。

カルトのやっかいなところは「妄信することで、現実生活でのバランスが取ることを忘れて、自分たちの思想が一番正しい」と思っていることなのです。

今でこそ伝統仏教としての地位を確立していますが、元々、鎌倉時代では、法然の浄土宗、日蓮の日蓮宗も、道元の曹洞宗も、栄西の臨済宗も、当時は新宗教(新仏教)だったのです。

ちなみに浄土真宗という宗名は、鎌倉時代からあったものではありません。

明治時代になって、初めて、「真宗(しんしゅう)」と名乗ることが許されたのです。

それまで「一向宗」と呼ばれる風潮が長く続いていました。

江戸時代の幕府も「浄土真宗」と名乗ることを禁止しました。

幕府の菩提寺の浄土宗の増上寺が猛反対したのでした。

確かに、浄土宗の立場からすれば、浄土真宗という「真」の字が不愉快極まりないと思います。

話を元に戻します。

比叡山で懸命に修行している僧侶からすれば、南無阿弥陀仏を唱えるだけで誰でも救われる、などという教えは画期的すぎて、許せないものだったのです。

でも、その比叡山も、また本願寺などの歴史を見ても、宗教が権力を持ったとき、もっとはっきりと言えば、教団をいう組織を作ったとき、どうしても信仰とはかけ離れてしまう側面が生み出されてしまいます。

時の為政者と組んだり、対立したりして、その存続を図ってきました。

政治と宗教の、持ちつ持たれつの関係は今に始まったことではありません。

卑弥呼はシャーマンだったと言われている頃からの話を持ち出せばキリがありません。

ただ、はっきり言えることがあります。

宗教というものが、教団をつくり、権力を持ったとき、本来あるべき信仰の姿とは別の、あらぬ方向へ逸脱してしまうものなのです。

実際、浄土真宗の宗祖親鸞は、浄土真宗という教団を開宗したわけではありません。

親鸞は、教団もつくらなかったし、寺すら建てませんでした。

のちの人たちが、根本聖典である『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』を親鸞が書き始めた年、元仁元年(1224年)を立教開宗の年と定めただけなのです。

非僧非俗(ひそうひぞく)を貫いたのです。

権力にへつらう僧でもなく、世俗の価値観に振り回されている俗でもない、と宣言したのです。

最後に、岸田総理の合掌の姿に見入ったこととはなにか。

それは、多くの閣僚が空手で合掌していたのに対して、岸田総理の手には念珠がしっかりとかかっていたのです。

仏教徒であれば、ほんとうは、仏さまを空手(からて・なにも持っていない手)で合掌しないものなのです。

合掌するのなら、その手に数珠をかける。

不思議とその祈りは亡くなった人へ届いています。

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