死んだら仏

憎しみの狭間で

川越市のおかやす学(岡安学)です。

このブログ記事は2019年11月10日に書いたものを再掲しています。

川越市のおかやす学(岡安学)です。

仏壇を処分するので、魂(たましい)を抜いてもらいたい、というご依頼でした。

ちなみに、浄土真宗では、お墓や仏壇、お位牌の魂を抜く、という宗教的儀式はない、と言ったほうが正確かも知れません。

仏教では、永遠不滅な霊魂の存在を認めません。

また、魂(たましい)は、彷徨(さまよ)うものだと考えると、仏さまに成っていない状態、つまり成仏していない、ということになります。

阿弥陀如来の必ず救うという本願力のはたらきによって、仏と成らせていただく他力本願のみ教えからすると、魂を入れたり、抜いたりする自力の行為や考え方が教義に反するのです。

だから、魂を入れたり、抜いたりしてもらいたいというご依頼を受けるときは、このようにご説明します。

阿弥陀さまをこのお仏壇にお迎えしますので、感謝の念仏を申し上げましょう。

阿弥陀さまに今までのご恩を感謝して念仏を申し上げ、お仏壇を処分いたしましょう。

ご依頼を受けた施主の実家にその仏壇が置いてありました。

その実家は、しばらく空き家のまま、放置されていました。

施主は、その家の長男でした。

お母さんがお亡くなり、しばらくして、お父さんがお亡くなりました。

そのため、家は空き家になりました。

長男である息子さんは、他県で、ご自分のご家族と暮らしていました。

空き家と聞いていましたが、ちょっとした庭も手入れされていて、家の中もきれいでした。

生前のお母さんとお父さんがお二人で暮らしていたぬくもりを感じました。

長男さんは、お一人で、その空き家にやって来て、わたしを待っていてくれました。

案内された部屋には、金箔で輝いた大きな立派な仏壇がありました。

わたしは、お仏壇の前でお勤めを終えてから、長男さんに話しかけました。

とても立派な仏壇ですが、もったいないですね。

と言うと長男さんは困惑した顔つきになりました。

わたしは、少し突っ込んだ質問をしていました。

なぜ、今のお住まいにこの仏壇を移されないのですか?

すると、隠していても仕方がなかったのか、言葉少なげに言いました。

妻が嫌がっていますので・・・。

奥さまと亡くなったご両親と何かトラブルがあったのですね?

ええ、ちょっとした言葉の行き違いから、ずいぶん前から、互いに距離を置くようになりました。

奥さんと実の親との確執に立たされて、お辛かったですね。

ええ、まあ・・・。

実の親の味方をしていたら、奥さんやお子さんたちと別れてしまっていたかも知れない、と心の中で思っていました。

奥さまの立場に立ってあげられて、それで良かったですね。

そう言うと、長男さんの表情が和らぎました。

ただ、と言葉をつないでいました。

ただ、死んだら仏、といいますが、これは、死んだら誰でも仏さまに成れるというわけではないのですが、世俗的な意味で、亡くなった人を嫌っても虚しいこと、なのだと思います。・・・奥さんの目の届かないところで、亡きご両親にお念仏を申し上げてください。

と言い残して、その場を後にしました。

死はすべての感情を清算するものではない。

けれども、憎しみが違う形で自分に還ってきたとき、自分の業の深さにいつか気づかされるときがやってきます。

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