そんなことを言っているんじゃないの

スピリチュアルケアとは

川越市のおかやす学(岡安学)です。

スピリチュアルとは、本来ならば、スピリチュアリティ(霊性・宗教性)のことです。

スピリチュアリティとは、人のこころの内に働く根源的生命力であります。

その人の生きる意味、目的、価値を根本的に基礎づけるもの(智慧や直感)であったりします。

スピリチュアルケアとは、人生の困難に直面した人が、生きがいを見出せるよう、生きることへのサポートをしていくことであります。

そのスピリチュアルケアを専門とする宗教者を臨床宗教師と呼ぶようになりました。

過日、NHK番組の「こころの時代」で、大阪市の浄土宗の僧侶であり、スピリチュアルケアを専門とした大河内大博さんがインタビューを受けていました。

大河内さんは、僧侶としての活動は、儀式や布教や伝道だけではない、と言い切ります。

地域社会の中で苦しんでいる人と向き合うこと。

その場所として、例えば、病院や高齢者施設などを挙げていました。

人が、死や、死にゆく自分、その人生、と向き合うとき。

そこから魂の叫びが生じます。

どうしてこんな病気になってしまったのか。

なぜ死ななければならないのか。

そのような叫びに、誰も容易に答えは提示できないのです。

スピリチュアルケアを専門とした宗教者は、その答えのない問いに向き合います。

そして、その問いから逃げない。

そのような活動をしている大河内さんは、どうしても忘れられない患者さんのお話をしていました。

80代女性で、肺がんの末期の患者さんでした。

精神的な不安が強く、個室に引きこもりがちになっていました。

夕方、その女性が自分の病室から出て、病棟のロビーのような談話室にいたところを大河内さんが見かけました。

大河内さんは病院から帰るところでした。

珍しいですね、この談話室に出て来られるとは?

大河内さんがそう声をかけると、女性はこう言いました。

この時間の病棟はあわただしいですね。

看護師さんの日勤の方と夜勤の方が入れ替わる時間帯ですからね。・・・ここにいると気分が晴れますか?

すると、女性がふと呟きます。

わたし、明日まで、生きていられるかしら。

大河内さんは、ここぞとばかりに、宗教者としての伝家の宝刀を抜きます。

明日まで生きていられるかどうかはだれにもわからないのですよ。ここにいる僕だってね、と話し始めようとしたら、女性が強い口調で大河内さんの言葉をさえぎります。

そんなことを言っているんじゃないの。

途中で話をさえぎられた大河内さんは、思わず、黙ってしまいました。

そして、二人のあいだで、長い沈黙が続きます。

やがて、大河内さんは、その沈黙に耐えられずに、女性に深々と頭を下げて帰られたそうです。

大河内さんは内省します。

もしかしたら、女性は、気分が良くて、引きこもっていた部屋から出てきたのではなかったかも知れない。

むしろ、部屋にいることさえも辛く、耐え難い孤独の中にいたのかも知れない。

そんな自分の前を何人もの看護師があわただしく行き交う。

でも、だれも自分に声をかけてくれない。

たまたま、声をかけてくれた大河内さんは、そんな孤独に打ち震える女性に対して、諸行無常の教えを説こうとした。

人のいのちは無常で、だれにもわからないものだ、と。

女性が求めていたものは、そんなマニュアル的な言葉ではなかったのだ。

その女性の、明日まで生きていられるかしら、という言葉は、そんな孤独と不安を抱えている自分のそばにいてもらいたい、という心の叫びではなかったのではないか。

大河内さんは、このようなことも言っています。

終末期の患者さんは、本来ならば、ベッドに横たわっている姿など、誰にも見せたくないのに、精一杯生きるために丸裸の自分の姿をさらしている。

そのような人を前にして、小手先の、その場しのぎの言葉は通用しないのだ。

宗教者としてではなく、自らも丸裸になって、大河内という人間の姿をさらすことも問われているのではないか、と。

宗教の教義を説くことでだれもが救われていく、と思い上がっている宗教者の方。

亡きこどもに会いたいと母親から嘆きかけられて、自分が死んでもいなくてわからないのに、亡きお子さんとは極楽浄土で会えますよ、と言ってのける宗教者の方。

残念ながら、それでは、人の悲しみや苦しみに寄り添うことは出来ません。

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