まじないや占い、現世祈禱に惑わされない 不条理を生きた僧侶② 川越市のおかやす学(岡安学)です。 良寛は、曹洞宗の僧侶です。 にもかかわらず、浄土教の本願念仏を心の支えにしていました。 本願(ほんがん)とは願いのことです。 誰の願いか。 阿弥陀仏という仏さまの願いです。 阿弥陀仏は元々、法蔵(ほうぞう)という人間でした。 法蔵は、不条理の只中(ただなか)で生きる人間の苦しみを見て、すべての人をあまねく救うという願(がん)を立てます。 そうして、自らの願いが実現するまでは仏にならないと誓ったのです。 法蔵は、長い歳月修行を重ねて、ついに阿弥陀仏になります。 法蔵が阿弥陀仏になったということは、法蔵の願いが成就したということです。 つまり、すべての人をあまねく救うという願いが成就したのです。 その成就した姿を現した言葉が「南無阿弥陀仏」です。 「南無」とは信じて疑わない、心の拠り所にします、という意味です。 誰を? 「阿弥陀仏」を信じて、心の拠り所にするのです。 それが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」です。 「阿弥陀(あみだ)」とはどういう意味でしょうか。 無量光(むりょうこう)と無量寿(むりょうじゅ)という意味です。 無量光。量(はか)り知れない光をもつ仏さまです。 その光は、影さえもつくりません。 その光はすべてを照らし、なにをもってもさえぎることはできないのです。 無量寿。量(はか)り知れない寿命をもつ仏さまです。 量り知れない寿命をもつからこそ、この世の生きとし生けるものを救えるのです。 その「南無阿弥陀仏」を口にして称(とな)えることで、阿弥陀仏の心がわたしの心の奥底で生きてきます。 「南無阿弥陀仏」を口にすることで、「必ず救う」という阿弥陀仏のはたらきがわたしの心の奥底に届いているのです。 と言っても、そのようなことを自覚できるでしょうか。 念仏を称(とな)えることで、阿弥陀仏の心がわたしの中ではたらいていると言ってもさっぱりわからないのではないでしょうか。 ここが、どの宗教にも言えることですが、信じるか、信じられないか、の分岐点です。 法蔵という人間が長い間修行して阿弥陀仏になったという物語を信じて受け入れるか、受け入れられないか。 浄土真宗の信心とは、わたしが信じるか信じないかという、自力の信心ではありません。 宗教学者の阿満利麿(あまとしまろ)氏は、阿弥陀仏の信心(まことのこころ)をわたしが納得できるかどうか、という表現を使われていました。 わたしが信じようとして得た信心ではなくて、その信心がいつの間にか自分の中に芽生えていた、目覚めた感覚とでも言ったらいいのでしょうか。 これが他力の信心なのです。 良寛の話に戻りますが、人は、あまりにも不条理な経験をしますと、わたしの信心、わたしの祈り、わたしの願い、がとてもちっぽけなものに感じるものです。 絶望することに絶望すると怖いものがなくなるのです。 もっと言えば、不条理の現実が、わたしの立場ではなく、阿弥陀仏の願いの中で受け止めていくことで、ちっぽけなものに変わってしまうのです。 大いなるはたらきの中でゆだねて生きていくことに目覚めるのです。 まじないや占い、現世祈祷に惑わされないのです。 ましてや先祖の霊のたたりなどという言葉に。 良寛の有名な言葉です。 「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 災難に遭ったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。死ぬときが来たら静かに死を受け入れなさい。これが災難に遭わない秘訣です。 この矛盾する言葉から良寛が悟っているように感じるのです。 この世の不条理を恐れるな。 「あるがまま」に生きるのだ、と。 この非情とも思える言葉に、良寛が南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされているいのちであったことを知らされます。 関連