不思議なことが起こるとき

亡くなった人へ思いをはせる

川越市のおかやす学(岡安学)です。

過日、NHKの「ひきこもり先生」というドラマを見入ってしまいました。

ひきこもり、いじめ、ホームレス、ヤングケアラー、若者の貧困、発達障害、大人社会の価値観の歪(ひず)み、コロナ禍など、盛沢山(もりだくさん)のテーマが問題提起されていました。

家庭や学校や地域社会で、もう頑張れない、助けて、という声を上げること。

その大切さを改めて気づかされました。

かつて、わたしが、公民館職員として、12年間、社会教育の現場で、取り組んできたテーマばかりであっただけに、とても感慨深い気持ちになりました。

今年も残すところ、あと数日となりました。

今年を改めて振り返りますと、ご縁のあった方々には、ほんとうに支えられて、助けられた一年でありました。

でも、それは、わたしが、素直に、もう頑張れない、助けて、という声を上げていたからだと思っています。

その声を受け止めてくれる人がいたのです。

ありがたい、の一言に尽きます。

捨てる神あれば拾う神あり、の一年でした。

世の中には、困っているときに非情に見捨てる人がいる一方で、かならず助けてくれる人がいます。

これは、ほんとうです。

だから、自分がほんとうに困っているときに手を差し伸べてくれた人を大事にしていただきたいものです。

かならず助けてくれる人が現れるというのも、ご縁です。

そうして、わたしにとっては、そうしたご縁も、目には見えない、不思議な、仏さまのはからいとしか思えない、仏縁(ぶつえん)でありました。

生きている人の思いと亡くなった方たちの思いが、交錯し、重なり合いながら、「それでいいんだ」という道へ導いてくださっています。

そんなことないよ。

不運なことばかり続いているよ。

という人もいると思います。

そういう方へ、宗教者の立場として、お伝えしたいことがあります。

苦しい、辛いと感じるときこそ、是非、身近で、ご縁のあった、亡くなった方たちのことを思い出していただきたいのです。

ご家族で、恩人で、親友で、亡くなっている方。

そうした方たちの、生前の、思いや願いをお聞かせくださいと、日々、手を合わせていただきたいのです。

目を閉じて、合掌して、ご縁のあった方たちの姿を、脳裏に思い浮かべていただきたいのです。

そうした時間を、一日、数分でいいから、作っていただきたいのです。

お願いごとなどの、一切の、私利私欲を捨ててです。

それを続けているうちにかならず不思議なことが起こります。

なにが起こるかは、ここでは、申し上げません。

体験から得るものに、わたしの言葉は要らないからです。

今年も、拙(つたな)いブログを見てくださったみなさまには、感謝申し上げます。

ほんとうにありがとうございます。

2023年も、みなさまにとって、健やかな一年になりますよう、念じています。

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