人はなぜ合掌するのか

合掌という見えない力

川越市のおかやす学(岡安学)です。

岡安学ホームページをリニューアルしました。

以前から感じていたことがあります。

川越市の斎場の職員が、運ばれてくるご遺体に深々と腰を折って一礼します。

また、火葬炉へご遺体を入れるときも、ご遺族に一礼を促したりします。

しかし、斎場といえども自治体の公共施設です。

本来、特定の宗教色は出せないはずです。

一礼はどう見ても神道の作法です。

だからと言って、政教分離の時代で、合掌してくださいなどとも、当然、言うこともできません。

だから、斎場の職員は、丁重にご遺体を扱うだけで、一礼など促さないほうがいいのではないか、と思います。

ところで、仏教ではなぜ合掌するのでしょうか。

昔懐かしいコマーシャルで、手のしわと手のしわを合わせて「しあわせ」というのは、ほんとうなのでしょうか。

気の利いたダジャレのような気がします。

合掌には意味があるのです。

インドでは右手で食べ物を扱います。

右手は清浄(しょうじょう)な手になるのです。

左手は汚れたものを扱う不浄(ふじょう)の手とされています。

右手は、人を助け、人を慈しみ、優しい心をあらわす仏さまの姿であります。

左手は、人を憎み、人を傷つけ、人をねたみ、わたしたちの姿であります。

こうした両面の手が合わさることで、仏性があるけれども凡夫(ぼんぶ・道理を知らない愚かなもの)でもあるわたしたちの真実の姿が示されるのです。

この二面性のあるわたしが、仏さまの教えを信じます、仏さまにおまかせします、と合掌して南無(仏さまを拠り所とします)と唱えるところに仏さまと一つになる世界があるのです。

みなさんの心がすさんでいるとき、怒りに震えているとき、誰かを憎んでいるとき、合掌できるでしょうか。

けんかや口論をしているとき、合掌できるでしょうか。

逆に、合掌している人とけんかや口論できるでしょうか。

合掌している人をののしり、許せないと怨むことはできるでしょうか。

本来、仏教徒は、仏像に対して、合掌するものではありません。

それは単なる偶像崇拝です。

お互いの、あらゆるいのちに合掌するのです。

食事のときは、いただきます、と言って、犠牲になった尊いいのちに合掌するのです。

そうして、他の生き物のいのちを奪わなければ生きていけない自分の愚かさに合掌するのです。

このいのちを慈しみ、お互いに尊いいのちをいただいていることに気づいたときに、自然と合掌しているのです。

正しい合掌の仕方があるのをご存じでしょうか。

肩や肘や手に力を入れず、自然と手を合わせます。

身体のわきの下にはたまご1個分をはさんでいるイメージで手を合わせます。

左右の手のひらをぴったり合わせます。

合わせた手の中指の先をのどの高さに上げます。

両親指の根元がかるく胸について、45度ぐらいの角度で合掌します。

合掌した手をまっすぐ立てても、前に寝かしすぎてもいけません。

そっと胸のまえで、力を抜いて、自然に合掌します。

あなたを苦しめる人やあなたが憎んでいる人がいるとします。

目の前にいなくても、その人をイメージして、ためしに合掌してみませんか。

必ず、相手も、あなたも、変わってきます。

合掌には、そういう見えない力があるのです。

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