創価学会の友

行き着く先は同じ

川越市のおかやす学(岡安学)です。

4月24日は、Sさんの命日だと思います。(拙ブログ記事2015.4.3「防犯灯とSさんのこと」)

Sさんがそばにいるのを感じます。

あなたのことを忘れません。

本題に入ります。

わたしの幼なじみの同級生が拙宅に時々新聞を持ってきてくれます。

彼は、熱心な創価学会の会員であります。

けれども、会員の勧誘のために来ているのではありません。

新聞を読んでもらいたいだけなのです。

なぜ、お題目(南無妙法蓮華経)を唱えるのですか(唱題)、と尋ねたことがあります。

お題目が心の拠り所になっているからだそうです。

ひたすらお題目を唱えていると、不安がなくなり、とても前向きになって、心身ともに力がみなぎってくるそうです。

日蓮上人が言われています。

法華経の行者の祈りが、叶わないことはない、と。

ただ、学会では、努力があっての祈りであって、努力を怠っていれば、祈りは叶わない、と言われています。

浄土宗や浄土真宗では、「他力本願」を説きます。

この「他力本願」は、世間では、誤った意味で使われています。

他人の力をあてにして、自分ではなんの努力もしないで依存する、と。

でも、ほんとうの意味は、違います。

「本願」は、わたしたちを救うという仏さまの願いのことです。

「他力」とは、仏さまの力、仏さまのはたらき、のことを言います。

だから、「他力本願」とは、わたしたちを救うという仏さまのはたらき、を意味します。

そのままのあなたを救うと言ってくださる仏さまがいるのだから、それでは、おまかせします、と言っているだけなのです。

でも、浄土宗も、浄土真宗も、祈りや努力を否定しているわけではありません。

「果報は寝て待て」ということわざがあります。

なにもしないで、寝ていればいい、という意味ではありません。

やることはやり尽くしたけれども、どうにもならないことはうろたえても仕方がない、ということなのです。

これは、私見であり、偏見であるのですが、わたしは、自力の行をしたことがない人や、自力の行に挫折したことがない人が、他力を説く、その言葉を信用していません。

なぜ?

ほんとうに自分で悟ろうとしたその行為に絶望した経験のない人から、仏さまにおまかせしなさい、と言われても、説得力がない、からです。

自戒を込めて言っているのですが、浄土真宗のお坊さんは、そんな人が多いのではないでしょうか。

最後に、創価学会の同級生がこんなことを言っていました。

お題目を長時間唱えていると、自分のことが俯瞰的(ふかんてき・高いところから見下ろして物事のありさまを見ること)に見えるのです、と。

自力でも、他力でも、行き着く先は、同じです。

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