安易に死を語ることなかれ

死に損なった体験から

川越市のおかやす学(岡安学)です。

今、こうして生きていると、このいのちを愛おしく感じることがあります。

昨年の2月のことでした。

持病が悪化し、いのちの危機を、経験しました。

初めて、死を覚悟しました。

が、内面では、苦痛とともに、激しく動揺していました。

こうした事態に至る兆候がありました。

昨年の1月に、なんとなく、生きることに疲れた、と思うようになりました。

自分なりに、精一杯生きて、やりたいことだけやって、ぽっくり逝きたい、と強く思うようになっていました。

だからなのだと思います。

自分のいのちに対して、そういう不謹慎で、身勝手な思いを、抱いていた。

だから、目に見えないはたらきが、わたしをいのちの危機に直面させたのだ、と。

試されたのです。

そうして、僧侶のわたしが、です。

生死一如と言っていたわたしが、です。

死に直面して思ったこと。

それは、死にたくない、でした。

死は、耐え難い恐怖でした。

極楽という素晴らしい世界があると日頃から言っているわたしが、です。

死が怖くて、このいのちを助けてください、と祈ってしまったのです。

そのようなわたしが、今まで、死者に向き合い、その遺族に向き合い、その悲しみに寄り添ってきたのです。

どうやら、わたしは、お布施目当ての詐欺師だったようです。

死を思考で語っていただけでした。

そうして、悲しみの場を取り繕うペテン師でした。

でも、こうして、死に損(そこ)なって、良かった、と思えることがあります。

信仰は体験だ、と気づかされたのです。

思考ではないのです。

理屈では自分にうそはつけても、本能では自分にうそはつけない。

この肉体が、理屈を超えたところで、叫んでいます。

死は恐怖だ、と。

そういう体験を踏まえているヒーラーや宗教者がどれほどいるでしょうか。

死にゆく人に寄り添う。

死を受け入れる。

死は再生の始まり。

なんて嫌で、傲慢な言葉でしょうか。

安易に死を語ることなかれ。

死に損なったわたしへの格言です。

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