満つれば欠ける しあわせと虚しさ 川越市のおかやす学(岡安学)です。 宗教は、向き合い方によっては、毒にも薬にもなります。 信仰と現実生活との折り合いがつかなくなるようだと危険です。 それはカルトです。 カルトというよりも、こういう宗教との向き合い方もあると思って気づいたものです。 このブログ記事は2017年9月13日にわたしが書いたものです。 川越市のおかやす学(岡安学)です。 高齢になる女性の葬儀でした。若い頃は、ミスコンテストの大賞を受けたほどの美貌の持ち主でした。 結婚された夫は裕福なご家庭の方で、その女性は、こどもや孫にも恵まれ、何不自由のない生活を送られていました。しかし、その女性は、友人と外出中に、突然、心臓の血管が破裂し、即死にちかい状態で、亡くなったのです。 喪主である夫のショックは大きいものでした。 通夜の前に、わたしは、僧侶控室で、その夫からお話を伺いましたが、あまりに落胆した夫の様子に、かける言葉がありませんでした。 夫の家が浄土真宗だったため、阿弥陀仏をご本尊とするお通夜となりました。 しかし、喪主である夫は、深い悲しみの中、浄土真宗のお通夜を行うことに、一抹の迷いがあったようです。 翌日の葬儀の開式前に、わたしが、その女性のご遺体のお顔をじっと見つめていると、夫がこう話しかけてきたのです。 わたしの実家が浄土真宗なので、昨晩、お通夜で、あなた様に来ていただきましたが、実は、家内は、ある新興宗教に以前から帰依しておりまして、その教団では、幹部をしていました。 お話を伺う中で、その教団の名前がすぐにわかりました。 わたしは、その教団が、真言宗の流れを汲む団体であることがわかっていたので、正直、浄土真宗でいいのだろうか、と戸惑いを覚えました。 でも、昨夜は、浄土真宗のお通夜の勤行をしています。 今更、変更することなどできません。 安心してもらうために、こうお答えしていました。 阿弥陀さまという仏さまは、諸仏や諸天善神が取り囲んでくださって、守ってくださっている仏さまですから、その教団の仏さまもご一緒にいられますから、ご心配しなくても大丈夫ですよ。 すると、夫は、妻が入信した動機は何か、想像がつきますか?と尋ねてきます。 わたしは、正直に、わかりません、と答えていました。 夫は、神妙な顔つきで言いました。 実は、妻は、自分があまりにもしあわせなので、今度は、少しでも、思い悩んでいる人たちの力になれれば、という動機で、入信したそうです。 そして、夫は、はにかむように続けました。そういう動機で、入信した人は、妻が、初めてだ、と教団の方から言われたそうです。 新興宗教に入信する人は、悩み事を抱えている人がほとんどだからです。 素晴らしい奥さまですね、とわたしは素直に褒めていました。 しかし、帰路の車の中で、わたしは、別の思いも抱いておりました。 満つれば欠ける世のならい。 しあわせの絶頂期を感じたとき、上り坂から、一転して、下り坂へ進んでいくのが世のならい。 同じ下り坂を進むのなら、急坂で下るよりも、少しでもなだらかな下り坂になるほうが人生にとっていいわけです。 人生に刺激を求めている人は例外ですが・・・。 女性は、諸行無常という仏法真理を悟っていて、意図的に功徳を積もうとした。 そうとも考えられたのですが、女性の場合は、そこまで、意図的ではない、と思われました。 それよりも、純粋に、人に尽くしたい。 その思いに突き動かされたのだと思います。 しあわせとは、何なのでしょうか。 満ち足りて、これ以上を求めないこと。 もし人間が、自分の目的のために満ち足りたとき、感じるのは、しあわせだけなのでしょうか。 人間のこころは、よくできているものです。 しあわせが「自分のためだけのもの」だったら、その絶頂期に感じるのは、「虚しさ」だからです。 もしかしたら、女性は、自分や家族だけがしあわせを感じている状態に、一抹の虚しさも感じていたのではないか。 そういう感受性といいますか、利他精神があったから、自然と、その教団の幹部にまで上り詰めたのではないのだろうか。 火葬場を後にしたわたしは、車の中で、そんな思いにとらわれていました。 関連