生死の苦海(しょうじのくかい)

信仰とは何か

川越市のおかやす学(岡安学)です。

この記事は2018年5月1日に書いたものを加筆修正しています。

「生死の苦海(しょうじのくかい)」とは、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の『高僧和讃』(こうそうわさん)に出てくる言葉です。

この「生死」は、一般的に「せいし」と読みます。

仏教では、「しょうじ」と読みます。

早島理(はやしまおさむ)さんは、浄土真宗の僧侶であり、滋賀医科大学名誉教授であります。

早島さんが仏教文化講演会でお話された内容を参考にして、「生死の苦海」について、触れてみたいと思います。

まず、生死(せいし)という言葉ですが、例えば、意識不明の人について、生死の境をさまよっている、などと使います。

これは、医学的な用語だそうです。

「いのち」があります。

「いのち」がある状態が、生(せい)です。

「いのち」がない状態が、死(し)です。

「生死(しょうじ)」は、仏教用語です。

この「生(しょう)」は、生きるという意味ではありません。

「生まれる」という意味が、生(しょう)なのです。

「生老病死苦(しょうろうびょうしく)」という言葉があります。

この生も、「生まれる」という意味です。

生まれて、成長し、年を取って、病気になって、死んでいくのです。

死の原因を医学的に言えば、病気だから亡くなったのです。

これこれ、こういう病気で亡くなりました、と。

仏教でいう死の原因とは、「生まれてきた」からです。

そして、仏教では、生も、老も、病も、死も、それぞれの「いのちの現われ方」の違いに過ぎない、と言うのです。

その死する「いのち」をいただいて、人は、なぜ、生きなければならないのでしょうか。

例えば、治らない病気をわずらった場合、辛い治療を受けて、なぜ生きていかなければならないのでしょうか。

早島さんは言います。

医学は、治すことは教えてくれます。

が、医学は、治らないのに、それでも生きていかなければならない意味を教えてくれることはないのです、と。

仏教は、いのちが尽きることがわかっていて、生きる意味を教えてくれるものです。

そして、老いていくことにも意味があり、病んで死んでいくことにも意味がある、と教えてくれます。

老いて、病んで、死んでいく意味なんて、不吉で、忌まわしくて、知りたくないし、聞きたくもない。わたしは、ただ、しあわせになりたいし、しあわせになる方法を知りたいの。

と多くの人がそう望むのだと思います。

でも、仏教は、究極的には、わたしたちが、しあわせになるための教えでもあるのです。

では、しあわせ、とは何なのでしょうか。

自分にとって、心地よい瞬間が、しあわせであれば、刹那であっても、それでもいい、と思っています。

そして、死を前にすれば、うろたえ、泣きわめく自分であってもいい、と思っています。

生死の苦海。

生まれてきて死んでゆく苦しみばかりの深い海に沈んでいるわたしがいます。

自分が溺れているという自覚があるから、救いを求めます。

信仰とはそういうものなのだと思います。

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