生死を分ける

水に流す言葉

川越市のおかやす学(岡安学)です。

仏教経典にある言葉です。

「懸情流水 受恩刻石」

どういう意味でしょうか。

あなたがかけた情けは水に流しなさい。

あなたが受けた恩は石に刻みなさい。

という意味です。

でも、実際は、どうでしょうか。

人間は、自分がしてあげた、という思いは、どうしても手放さずに覚えています。

ところが、自分に何かをしていただいた、という気持ちは、どういうわけか忘れているものです。

だから、してあげた、と思うのは、人間の愚かさのあらわれです。                       

してあげた、のではなく、させていただいたと、どこまでも謙虚になることが仏道を歩む道なのだ、と思います。

我が身のみを頼り(たより)として、他人を侮る(あなどる)ことを「慢(まん)」と言います。

自慢(じまん)も、我慢(がまん)も、実は、紙一重であります。

我慢が、美徳のように思われがちですが、強情という慢心が隠されているわけですから、そこにはお悟りの世界はないのです。

最近、似たような言葉を耳にしました。

言うものは水に流し、聞くものは(言われるものは)石に刻む。

どういう意味でしょうか。

言う人は何気なく言った言葉でも、聞く人にとっては心に刻む言葉であったりする。

という意味です。

そんなつもりで言った言葉ではないのに、相手の、こころの地雷を踏んでしまったことはないでしょうか。

言葉には、力があります。

だから、怖いのです。

弁護士の中西務さんの著書『運の良くなる生き方』の中で、このような体験談がありました。

部落差別により、娘さんが、つきあっている男性の両親から、結婚を反対されていました。

その娘さんのお母さんが、自分の血筋のせいで、娘が結婚できなくては申し訳ない、とのことで、中西さんに相談をしていました。

中西さんは、詳しく事情を聴くため、午後3時頃、そのお宅へ伺ったそうです。

話を聞いているうちに、午後6時過ぎになってしまいました。

「遅くなってしまったので、夕食を食べていってください」

とお母さんから言われました。

てんぷらを揚げて、用意してくださっていました。

が、中西さんは、その日の、昼食が遅かったのです。

お腹が空いていませんでした。

そして、何気なく、遠慮がちにこう言ったのです。

「いえ、結構です」

そのときの、お母さんの様子がおかしかったのを感じていたそうです。

二日後に、信じられないような電話がかかってきました。

そのお母さんが、自死した、とのことでした。

しかも、その遺書にこう記されていたそうです。

弁護士さんにも、差別された。死ぬしかない、と。

自分が作った食事が汚らわしいと思われた、との誤解が生んだ悲劇でした。

目に見えないものを伝えることをお仕事にしている方。

なにを、どう伝えるのか。

その伝え方ひとつで、人の、生死を分けることがあります。

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